石川太郎's DIARY
【いちご新聞】
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10年03月13日
「ラッセーラーのことだま」
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人口30万人以上で 世界で最も積雪の多い都市は、 青森市なのだそうだ。 昭和20年2月の「市街積雪2m9cm」は、 国鉄(当時)青森―青森操車場に動員された 除雪作業員の延べ人数11万5000人という人数と共に、 いまだ語り継がれる忌まわしい記憶とのことだが、 それ以降も度重なる豪雪に悩まされてきたこの町は、 いまでも年間30億円に達する除雪費の捻出に 汲々としているという。 そんな地域の郊外ならば 相当の積雪を目の当たりにするのは当然なのだろうが、 これでも青森人には物足りないらしい。 「だいぶ雪は降らなくなったんですよ」 「これでですか...!?」 「昔はとんでもなかったですから」 『ねぶたの里』の三上さんは、 爽やかな笑顔でさらりと言ってのけた。 周囲の雪は、 空中に漂うすべての光を集めて 頬にまばゆく照り返してきた。 『大人の休日倶楽部.青森の旅』 今週は最も冬らしい景色の中で突如出くわした 真夏の極彩色のくだりでございます。 そしてその出くわし方ならば圧巻だった。 光に満ちた雪深い山道から 薄暗く静かな空間に足を踏み入れた途端...。 鮮やかな数色の光が 黒々と引いた名人の筆使いにさえぎられ、 それが寄木細工のような文様を描いて 一体の武者絵を構成するといった類の巨大偶像が、 多数そこに存在したのだから。 「おお...」 「ねぶた」とあらためて説明されなくても分る。 つまりは夏にあれだけ躍動したそれが、 神々しい輝きはそのままに 息を殺して次の出番を待つその壮観に、 私たちはただ圧倒されるしかなかったのである。 それも一体や二体ではない。 幅9m奥行き7m高さ5mの巨大発光物が ずらり八体も鎮座する光景をもって、 これを壮観≠ニ言わずして何と言おう。 「これらは全部去年のまつりで使用されたものなんですか?」 「そうです、それをそのまま保存しているのです」 たとえば、 『諸葛孔明と南蛮王 /北村隆.作』とか 『義と愛 直江兼続 /千葉作龍.作』といった具合に、 作品名と作者の名前も 落語のめくり風にしつらえ行燈とし、 それらは巨大造形物の傍らで小さく主張する。 案内の三上さんによれば、 制作はねぶた師≠ニ呼ばれる 13~4人の限られた人々によって行われるが、 彼らはかつて名人と謳われた先人たちの薫陶を受けた いわゆる専門職人でありながら、 普段はサラリーマンだったり 自営で商売をなさっている方たちなのだというのだから、 少々奇妙な気分になった。 だって...ですよ。 これだけの作品を形にするのなら、 その前段作業として テーマ設定から難航するのは当然だろうし、 それをイメージ画に起こすのは容易いとしても、 さらに設計図に描きなおすというのは 決して並大抵のことではあるまい。 巨大な行燈であるがゆえ 電球の配線図だけでも相当膨大になるだろうから、 一年中ねぶたに没頭出来なければ 夏の本番までに到底完成しないであろうことは、 素人目にも分る。 それがなんですと! 普段はサラリーマン...?! 毎年300万人の動員を誇る 東北三大まつりの筆頭『青森ねぶたまつり』の、 このねぶた≠ニいう名前が、 「眠い」「眠り」を意味する言葉であることを どれだけの方が御存知だろう。 これほどの巨大張子を 内なる灯りで極彩色に点すという点で、 いかにも情念の芸術に溢れた青森らしいとも言えるこの異形のまつり≠爨 「灯籠流しの変形」という観点で見れば 仙台と同様七夕まつりの一派とも言えるのだから、 まつりの変遷とはまことに不思議だ。 ただしこの場合流す≠フが、 一般的な精霊ではなくて 「夏の睡魔」であったところが面白い。 昼の日照時間が そのまま農作業の労働時間だった昔は、 夏場こそがもっとも働き時であるにもかかわらず、 日差しの暑さに負けて ぐったりと横になってしまうのも真夏の恨み。 そこで農繁期の敵である睡魔を 沐浴(水浴び)によって流してしまおうというのが、 ねぶたの語源『眠り流し』であった。 この陰暦7月7日の沐浴行事は 津軽の岩木川流域の一部集落でいまだ若干見られるほか、 福島県では『ねむた流し』 栃木県では『眠った流し』と呼ばれていたと、 それぞれの郷土史はその痕跡を伝えている。 だが日本海に面した秋田だけは、 火を点した多くの灯籠を川に流すことをそう言った。 これを竿にぶらさげれば まさに『秋田竿灯まつり』の姿そのままだが、 この竿灯≠フ呼び名が、 明治天皇行幸に合わせて 中国北宋時代の史書から取ったものであり、 それ以前は『ねむり流し』と呼んでいたと伝えられる。 一方でその東北旅行中に 津軽藩に乞われて藩校の薬事係をつとめた、 江戸後期の博物学者.菅江真澄が、 寛政8年(1796)7月4日の日記に 地元の七夕行事について次のように記しているのが興味深い。 「暮れば、笛.鼓にはやしどよめけば、(中略)燈の器を思い思いに作り持て、照り輝かし振りかざし(中略)宵より更ゐるまで人の群れありくは、例のねぶた流し」 それまではただの水浴びに過ぎなかった『ねぶた流し』が、 この時代にはすでに灯籠が登場し 大勢の人々で賑わう祭りとして描かれている。 (イメージ写真) これは元々津軽にあった 沐浴行事としての『ねぶた流し』が、 南の秋田や能代には存在した 七夕祭の灯籠流しと合体したと推測したくなる流れではないか。 また歴史的に津軽に灯籠が登場するのは、 津軽藩5代藩主.信寿公による 享保7年(1722)7月6日の御国日記であることから、 いわゆる『ねぶた』の造形的基礎は 暴れん坊将軍の時代(享保年間)に準備されたと言っていいだろう。 そこでひとつの疑問が残った。 ならば津軽へと北上した 秋田や能代の灯籠文化の発祥はいったいどこかという問題だが、 これはこの両地方に限らず 日本海側に提灯や灯籠を山車で引きまわす祭りが多数見られることで、 ひとつの推論が浮かんでくる。 たとえば石川県の『能登キリコ』を始め、 富山県の『魚津たてもん』に『福野.夜高まつり』 『高岡.伏木曳山まつり』、 新潟県では『直江津.祇園まつり』、『村上.七夕まつり』、『佐渡一宮弥彦神社の灯籠まつり』と、 海岸沿いに伝承された巨大山車まつりの並びは、 まるで江戸時代に蝦夷と上方の間を行き来した 北前船の寄港地のごときではないか。 そしてそれらのほとんどが、 巨大な山車に無数の提灯を下げた 京都.祇園まつりの山鉾巡航とそっくりなのも、 決して偶然ではない。 (京都.祇園祭) 当時の日本海沿いの港町が 京からの文化.物資で大商いをしたように、 京都の祇園祭も 他の京文化と共に北へと伝播され、 その土地土地で独自の灯籠まつりへと変遷していったのだろう。 なぜなら青森ねぶたの起源を、 享保年間に現在の青森市油川付近で 弘前ねぷたを真似て灯籠を持ち歩いたとする地元史の記述にも、 それはぴたりと符号するのだから。 ラッセーラー ラッセーラー ラッセーラッセーラッセーラー ならば青森ねぶた独特の掛け声が 京都.祇園まつりの流れを汲むものかといえば、 とてもじゃないがそんな風には聞こえぬと、 巨大ねぶたの曳き手になりながら ひとりずっと思っていた。 ここ『ねぶたの里』のハイライトに 本物のねぶた曳き廻し体験というのがあって、 ひとりでも是非体験してみたいと申し込んだら、 「あなた1台4トンもあるねぶたを、ひとりで曳く気ですか!」 と電話口で大真面目にさとされて 一時は断念した私だったが、 この日は偶然団体旅行の見学が入っていて そこに私は首尾よく混ぜてもらうことに成功したのであった。 ラッセーラーラッセーラー ラッセーラッセーラッセーラー それにしてもだ...、 これだけの巨大な造形物を 大八車と同じタイヤ2輪で支えていたとは驚きだった。 その方が市中を曳きまわす際に クイックに回転が出来ていいというのだが、 こっちはアトラクションで支えているのだから、 この何とも不安定な重心が 総勢20人の県外観光客の足元をよろめかせるのだ。 これは後で聞いた話だが、 「ラッセーラー」という独特の掛け声は どうやら戦後に定着したものらしく、 これが戦前では「ラセ、ラセ」だったという。 この「ラセ、ラセ」とは 実は「出せ、出せ」の訛りらしく、 昔はねぶたに灯を点して練り歩く際に、 「出せ、出せ、ろうそく出せ、出さねばかっちゃくぞ!」 と周囲に声を掛けながら 当時貴重だった蝋燭の供出をねだった名残だとか。 なんとも世知辛い掛け声だこと...。 歴史はあまりいじらない方が、 ロマンが壊れなくて良いのかも知れないね。 あーラッセーラー あーラッセーラー あーラッセーラッセー ラッセーラー
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◇石川太郎アナのプロフィール

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