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石川太郎 いちご新聞
石川太郎


誕生日
7月9日
出身地
大阪市
血液型
A
担当番組
R:「それいけミミゾー
COLORSマンデー
TV:「週刊とれたて!みやぎ
趣味
新聞折込チラシ閲覧
新型自動車の試乗
今、興味のあること
これからモノの値段が、消費者とメーカーとの間でどう決定されていくのか?
得意ジャンル
歴史(中国史、古代ローマなど)、鉄道、映画史etc.‥‥。

<特技>
大型電気店見学
好きなタレント、芸能人
安倍なつみさん
私の好きな・・・
食べ物は、桃、イチゴ、スィーティー
女性のタイプは、笑顔がすてきな人
歴史上の人物は、ユリウスカエサル
お気に入りの場所
「サイゼリア」「ガスト」(泡立ちコーヒーがよい)
私のよく行くお店
ミスタードーナッツ
私ってこんな人です
お前向きで、涙もろくって、明るくて、おしゃべりで、思いやりも自分勝手も全部丸出しで日々生きる!
『ぼ、ぼ、僕らは目ぐすり症候群』
2010/01/22




 普段コンタクトレンズを装着しているから
瞳が欲しがるのか、


 いつもパソコンばかり眺めているから
疲れた眼球が要求しているためか、


 日々私は目薬が手放せない。



 というよりもむしろ、
目薬が手放せない人間になったと言うべきか・・・。







 ドラッグストアに行く用事があれば
必ず目薬コーナーを覗き、

 ついつい一箱買ってしまうのは、


 「もし切れたらどうしよう」
という生来の心配性が頭をもたげるからだが、



 薬と名のつく商品群の中で
最安値298円≠ニ最もロープライスであることも、

 要因としては決して小さくはないと思う。



 気がつけば各スーツのポケットに1個ずつあり
それに気付かず新規購入を繰り返す私は、


 いつしか結構な目薬コレクターとなっていた。




 そういえば人間の受ける刺激の80パーセントが
視覚情報であるがゆえに、

 人間が感じる疲れも目が原因であることが多いと
雑誌か何かで書いてあった。



 確かにテレビにパソコン
携帯電話の液晶画面は言うに及ばず、


 交差点での息もつかせぬ右折判断や
路地での子供の飛び出しに高齢者のよろめきなど、

 車の運転中もまた視覚入力が実におびただしく、


 なるほど現代人の瞳は
いつも疲労困憊の体なのだきっと。







 まあ私程度でこれだけ目薬を差すのだから、

 さらに目が大きい方は
もっと目薬を必要としているに違いないと、


 私の周囲で眼球の大きさならば双璧を成す
大久保悠さんと佐藤育美さんにお聞きしたところ、



 「目薬は絶えず常備していますか?」という質問に対して、


 新人アナの大久保さんがイエスで
『それいけミミゾー』パーソナリティの育美さんはノーなのだから、


 人間とは分らない。



 



 「私はしょっちゅう目が乾くので必要です」
(大久保さん)


 「コンタクトを1dayにしたら、目薬は要らなくなりました」(育美さん)





 まあ理由ならば両者それぞれだが、

 お二人とも眼球への入力が
常人の数倍に達すると予想されるだけに、


 視覚情報量と目薬との因果関係は
決して「ある」とは言い切れないようだ。




 だが視覚情報の多寡が
眼精疲労の主な原因と言えないならば、

 人間はいつごろから目薬を差していたのだろう。




         
   (画は石川画伯・鉛筆画)



 たとえば昭和の人気クイズ番組
『お笑い頭の体操』や『クイズダービー』で長年提供スポンサーだった、

 日本の目薬メーカーの雄・ロート製薬は、


♪ロート ロートロート ロート ロートロート
ロート製薬ぅ〜〜〜♪


 という津田陽二作曲のテーマソングでもおなじみだが、



         『巨泉のクイズダービー』20年前の筆者出場で10万点獲得のシーン。
(相棒はTUY家坂文子さん)




 社名に「漏斗(ろうと)」と付けるなんて
きっと点眼薬をじょうごで点眼した江戸時代の創業かと思ったら、


 ロート製薬は実は明治の創業であり、


 社名の「ロート」も
ドイツ・ミュンヘン大学のロート・ムンドという医学博士の名前を頂いたものと聞いて驚いた。



 なんでもロート博士とは、

 同社の目薬開発に協力した
当時の日本眼科医学界の権威・井上豊太郎博士の恩師なのだそうだ。



 当時の時代背景としては、

 明治の20〜30年頃に伝染性眼病・トラコーマが流行し
にわかに目薬の需要が高まっていたようで、


 かの文豪・夏目漱石も同病を患い
神田駿河台にある井上眼科に通っていたことが、

 正岡子規あての書簡で分っている。



                    
      (イメージ写真)


 「昨日眼医者へ行ったところが、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね。銀杏返しにたけながをかけて。天気予報なしの突然の邂逅だからひやっと驚いて、思わず顔に紅葉を散らしたね」(明治24年7月18日)



 文豪が恋心を抱いた井上眼科の女性に関しては、


 漱石を取り巻いた恋人のひとりとして
研究者の間では時折話題となる女性のようである。



                   (画は石川画伯・水彩ペン)


 話がそれたが、
目薬の歴史はもっと古そうだ。




 つい先日(1/8)のAFP通信が、


 「古代エジプト人のアイメークは目の疾患予防のため」とする仏合同研究チームの報告を伝えていたが、


 それによれば、


 クレオパトラでお馴染みの独特のアイラインは
鉛や鉛塩を繊細に調合したもので、

 含有物の化学反応によって、

 眼病の原因となるバクテリアを撃退するための
免疫防御システムを活性化させていたのだと・・・。



 これをもって目薬の始まりとすれば
その歴史は一気に4千年も遡ることとなるらしい。



 へぇ〜。


         
   (東武ワール緒スクエアにて)




 日本では昔から、
「目薬の木」なる薬木が重宝された。




 「樹皮や葉の煎じ汁で目を洗うと眼病に効能あり」と、

 すでに江戸時代の初期には
播磨(兵庫県)や京の都で評判になっていたこの天然の目薬≠ヘ、


 その主成分ロドデンドロールに
角膜の汚れた水分を排泄する作用があることが現在では知られていて、



 このカエデ科の落葉樹が
日本にしか自生しないという特性からも、

 目薬の木こそは
まさに日本の目薬の元祖≠ノ相応しい。





 ・・・そう、
そして「播磨」なのである。




 司馬遼太郎の『播磨灘物語』は、
豊臣秀吉の名参謀・黒田官兵衛の生涯を描いた歴史小説だが、



 後に歴史上最高の軍師と謳われることになるこの男は、

 はじめ播磨国・御着城主の小寺氏に仕官した時も
そして秀吉の麾下に入ってのちも



 そのずば抜けた才能から
みるみるうちに昇進してゆく様を妬まれ、

 古参から必ずこう陰口を叩かれたという。




 「しょせん目薬屋のセガレごときが・・・」



                 (画は石川画白・ボールペンと色鉛筆ほか)



 そう16世紀の時代を
おのれの才覚だけで駆け抜けた天下無双の策士は、


 目薬を売って糊口をしのぎ。

 また目薬によって
おのれの武運を開いた一門の出であった。



                    (高松城水攻めイメージ)



 恐らく戦国のもののふ達の眼病を癒したに違いない黒田秘伝の目薬とは、

 目薬の木の樹皮を砕いて赤い布に包み
それを大はまぐりの容器に入れて商品としたもの・・・。



 そうこの時代からすでに、
眼病と言えば目薬の木を重宝したのである。




 この黒田家と目薬の関係については、

 司馬良太郎の『播磨灘物語』によれば
官兵衛の曽祖父・黒田高政まで遡ることが出来、


 さらに高政以前の近江時代からすでに
どうやら黒田家は「玲珠膏」という目薬を秘伝としていたふしがある。







 つまりこの国の商品としての目薬が
約500年の歴史を持つのは間違いないようだ。




 たとえば長野・善光寺から徒歩3分の門前に暖簾を掲げる
『笹原十兵衛薬局』という名の老舗なども、

 「雲切目薬」という商品を
いまだに家伝秘薬として販売しているが、



 それも初代・笹原十兵衛が工夫した
天文12年(1543)以来の伝統を有すると謳う。




 つまり元々民間療法だったものが
商品化され認知されて流通するようになるのは、

 国を超えて人の往来が激しくなる
戦国の世まで待つ必要があったのかも知れない。





 ちなみにわが国で
西洋医学の処方による目薬が登場したのは、

 明治維新直前の慶応3年のことであり、



 のちに東京日日新聞(現・毎日新聞)の主筆として活躍する岸田吟香が
それを事業化して大いに儲けている。



 岸田はその処方箋を、
ジェームス・カーティス・ヘップバーンという宣教師から伝授された。




     (江戸東京博物館にて)



 ヘップバーンとは言わずと知れた
ヘボン式ローマ字の創案者・ヘボン氏のことであり、



 のちにフェリス女学院を準備するなど
キリスト教を通じた日本人教育を目指していたヘボンが、

 日本初の和英辞典(和英語林集成)の編纂を
岸田に依頼した縁で、


 後年ヘボンは
岸田に目薬の調合を教授することとなる。



 ヘボンはもともと医療伝道宣教師であった。



 岸田はそれを『精リ水』の名で売り出し
自分が主筆を務める東京日日に大々的に広告を打って、

 大いに財を成したという。







 だがやがて吟香の『精リ水』は、

 大阪・北浜の田口参天堂(現・参天製薬)の
斬新な点眼目薬に破れ、



 明治32年8月の東京朝日新聞掲載の
「こんな立派な目薬が出来ました」との自信満々の広告でデビューした

 同社のベストセラー『大学目薬』は、



 同じ大阪・清水町のライバル信天堂山田安民薬房による新点眼目薬『ロート目薬』と、

 百年以上にわたり
両者みごとな角逐を続けることとなるのであった。





 そして今日も私は目薬を買ってしまうと・・・。


 う〜ん・・・因果まったく無関係。



   


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